クロヒグマのブログ

人類はロボ化しています

キャラクター&ゲームで様変わりした今

例えば、駅構内の広告やテレビCMで美少女キャラがあだっぽい表情をしたり、どこか意味ありげなポーズをしていること自体、今日ではありふれている。インターネットやSNSなどのネット環境の内でも然りで、ジャンルや絵柄のデフォルメ度合いは様々だが、そこかしこにイラストをみかけるし、誤ってPRのリンクをタップしてしまい、ビキニアーマーの戦闘美少女に溢れた関連ゲームのインストール画面に飛ばされてしまうケースも少なくない。
 
キャラ萌えを趣味とすることに関して、どうやら私が生まれてから小学生になるまでの90年代の時点ではまだ世間の風当りが強かったようだが、ゼロ年代半ばの『電車男』放映後あたりからかおそらくオタクが日の目をみるようになり、徐々にカジュアルなものとなってゆき、10年代にスマートフォン普及という技術革新とともにグッとそれが加速して、私が成人する頃までには大衆化しきっていたように思う。
 
つまるところ、オタクであることは今や非モテ・非リア充であることを意味せず、ましてや少数派でも胡散臭いものでもなく、あらゆるマイナスイメージはすっかり除去されたといっていい。
(そもそも私が高校三年の2010年頃の時点でスクールカーストの頂点にいるイケイケ同級生があずにゃん俺の嫁と口癖のように言っていたし、学園祭で女装をしてAKBの曲を踊っていた)
 
現在でも、生身の人間のようにヌルヌルと動くVtuberを疑似恋愛の対象とする人が増えていると聞くし、キャラクターのコスプレをした演劇(2.5次元)も依然として根強い人気を誇っていることを考えれば、キャラクターが人間に近づき、人間がキャラクター化したりするのは日常茶飯事で、2次元⇔3次元間のディメンション交流についてもいよいよ節操がない印象を受ける。 ※1
 
キャラクターに関して言及すると、大抵ツンデレキャラはわかりやすくツンデレであり、お嬢様キャラはわかりやすくお嬢様であり、赤い髪色の主人公はお人好しor熱血漢で、すぐ隣にはクールな青髪の友人orライバルがおり、その他の性格&髪色の登場人物が追加されるような描き方についてもある程度テンプレ化されているようにみえる。
 
思うに、そうしたはっきりとした属性に沿って(ある意味)効率的にデザインされたキャラクターに親しみを持てることが(萌えたり推したりすることが)、アナログではなくデジタルな手段を利用できるひとつのリテラシーかのごとく、昨今のカルチャーを消費する主体としては最先端なのかもしれない。(疎らな情報量の図像から想像力を膨らますことができるという意味において一種の”進化系”なのではないか、という見方もあるだろう)
 
ところが、お察しのところかもわからないが、どうしても私はこれらの記号的身体と同居できない。虚構的存在はせめて虚構のまま距離を置き、現実に食い込んでくるべきではないと考えてしまっているし、極端な話、このキャラクター偏重のトレンドが人間の感性のロボ化を強めている側面があるのではないかという、少々ディストピアめいた危機感すら抱いている。
 
現に、多くの場合、設定ありきのキャラクターたちは、容姿・性格・声・色・口癖・実は甘いものに目がないといった取ってつけのギャップなど、構成要素がひとつひとつ明示できそうな(それこそデータベースに格納できそうな)、各パラメータの集合体になりがちだ。これを錠剤のサプリメントと喩えるなら、きっと人間は生鮮食品のようなもので、各要素に単純に還元し尽されるようなカクカクとしたものではなく、つまりデータの集積でもなく、もっと曖昧で有機的な、1とも0ともつかないグレーゾーンをぐらぐらし続ける類の存在ではないだろうか、といいたい。
 
ここでまた思い出されるのは、小学生の頃に『カードキャプターさくら』の声色や振舞いを真似ていたであろう同級生女子と、中学生の頃に明らかに『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンの喋り方やそのヤレヤレ系の態度が憑依してしまっていた男子クラスメイトのことだ。当時、私はどちらに対してもひどく怪訝な顔をむけてしまった記憶がある。彼も彼女も、出来合いのロボティックな行動フレームを内在化させ、己の現実生活と1ミリも合致せぬであろう設定の世界へ遊離しながら、ある無自覚な”わざとらしさ”で周囲に違和感をまき散らしており、そんな"空気の読めなさ"が耐えられなかったのだ。
 
ビジュアルに興奮することにつけても、キャラクターは美味しいところだけが都合よく純化された、刺激を感じるポイントの塊といって差し支えない。非現実的に大きい眼、無防備に赤らめた頬、水風船のような妄想の乳房、やたらとピチピチとした衣服、獣耳や尻尾など、甘味の感じられるフェティッシュの寄せ集めにほかならず、はっきり言って三次元のそれよりもいかがわしく、かつ情報過多に思われるが、逆に写実的に描き過ぎてしまえばキャラクターとして味気ないものとなり、消費対象として成立しなくなるのだろう。
 
いずれにしても、私はキャラクター文化に適応することができなかった。となれば、アップデートし損ないの行き遅れか、あるいはアニメ絵をみただけで反射的に眉をひそめてしまうレガシーな年調世代の一部と同類なのかもしれない。くわえて、今回は詳述しないが、ゲーム的な精神文化にも馴染むことができなかった感じがある。近頃では、親ガチャ、人生難易度、無理ゲー、高スペック、フラグなど、個人の人生をRPGゲームにみたてたようなフレーズが幅を利かせており、これも人がキャラクターと同一化してゆく傾向の一表現なのだろう。
 
おそらく、この期に及んでアニメやゲーム、キャラ萌えやRPG的マインドを批判をしようとすることは、時代の進行方向を逆行してゆく要領の悪い行為でしかない。あるいは、「自覚のある俺は”人間”で、お前らなんか全員動物化した”ロボット”じゃないか」的な、歪な特権意識の自己表明になりかねず、自惚れたシニシズムに近い。 ※2
 
だが、私はあえて石を投げつるつもりだ。人間が日に日にロボットめいたものになってゆくようなこの趨勢をみるに、私たちのリアルのあり方、虚構的な存在との付き合い方を一度見直す必要があるはずだ。
 
こうしたの関連のテーマについて文章にしてみたいという考えからブログを立ち上げたので、以後いろいろな記事を書いてゆこうと思う。ただし、前述のルサンチマンが内容に滲み過ぎぬように注意を払わなければならない。単に精神的に潔癖な俺カッケーで終わってしまうのではスカしているだけで、薄っぺらいものになってしまう。
 
※1 評論家の宇野常寛は”仮想現実”の時代から、”拡張現実”の時代へシフトしたと指摘しており、現実と虚構を明確に棲み分けさせるのではなく、現実のレイヤーに虚構を混ぜ込ませるような想像力への転換は様々な事例で確認できる。(ポケモンGOの位置情報ゲームのほか、コスプレ、聖地巡礼など)
 
※2 動物なのかロボットなのかどっちなのかという感じするが、哲学者の東浩紀は『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』で、属性の束であるキャラクターを消費する社会について、データベース消費という考え方を提示しており、その言葉遣いに引っ張られている。そのため、ここでは動物化≒ロボ化として割り切って読んでいただけたらと思う。